• スピルオーバー  ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか デビッド・クアメン 著 甘糟 智子 訳 出版年月日    2021/03/31 明石書店
    • ウイルスたちはなぜ、いつ、どこで、いかに種を超え人間へと飛び移り、大惨事をもたらしてきたのか。異種間伝播(スピルオーバー)を通じて爆発的に広がった疫病の実態とそれに挑戦する人々の苦闘を、徹底した現地取材を通して辿る世界的ベストセラー。
    • 【「訳者あとがき」(甘糟智子)より一部抜粋】
      本書は自然科学系のルポルタージュを数多く手掛ける米国人作家・ジャーナリストのデビッド・クアメン氏が、米誌『ナショナルジオグラフィック』の企画で行った「人獣共通感染症」をテーマとする数年がかりの取材をまとめ、2012年に発表したSpillover: Animal Infections and the Next Human Pandemicの完訳版である。米国では出版時にベストセラーとなり、米科学著述者協会(NASW)の科学ジャーナリズム賞(Science in Society Journalism Award)や英国王立生物学会の図書賞(Science in Society Journalism Awards、一般生物学部門)を受賞した。ここへ来て、2019年末以降のいわゆる「新型」コロナウイルスの流行によって原書が再び世界の注目を集め、今回、日本語版登場の運びとなった。
 
  • 明治日本の海港検疫〜水際作戦の歴史〜 沖縄国際大学総合文化学部准教授◆市川智生 海洋政策研究所 Ocean Newsletter 第492号(2021.2.5 発行)
    • わが国では江戸末期以降、海外諸国との通商を背景として、コレラがたびたび大流行していた。1877(明治10)年秋、西南戦争の帰還兵がもちかえったコレラを水際でくい止められずに、全国的流行へと発展していった事態を受けて、明治政府は検疫法令の作成に着手することになった。水際における検疫にもさまざまな試行錯誤の歴史があったことを紹介したい。
    • 西南戦争コレラ事件
      • 日本における検疫の歴史は、明治の初めにまでさかのぼる。長崎、横浜、函館、神戸、新潟などの開港場を拠点に国際貿易が行われるようになった時期は、中東、ヨーロッパ、アフリカ、中国大陸などでコレラが猛威を振るう第四次世界大流行(パンデミック)のさなかにあった。西南戦争のあった1877(明治10)年は、中国南岸のアモイから長崎へと伝播しつつあったコレラの流行だった。多くの兵士が行き交う長崎で、政府軍将兵たちはつぎつぎとコレラに斃(たお)れていったのである。そして、長崎から輸送船で大阪へと引き揚げる将兵の間からもコレラ感染者は続出した。その通報に接した大阪の陸軍事務所では、神戸港沖での停船措置を命じ、帰還兵の上陸を禁止した。
      • 反乱軍の鎮圧に成功した政府軍将兵は、神戸港で上陸禁止命令を伝えた医務官の説得に応ずることなく、神戸から大阪への行軍を強行したのだった。神戸と大阪では多くの帰還兵がコレラを発症し、1,000名以上の将兵が大阪に開設されていた陸軍臨時病院へと収容された。それだけではなく、京阪神地方の市街地に宿泊する将兵から市民へとコレラが感染し、全国的流行へと発展していったのである。
    • 検疫と国際関係
      • 1877年の検疫の失敗とコレラの蔓延という事態を受けて、明治政府では検疫法令の本格的な作成に着手することになった。ただし、想定されていたのは日本国内の港湾を移動する船舶ではなく、海外から日本の開港場へと入港する船舶への検疫だった。
      • 当時、ヨーロッパ諸国の間で数年ごとに開催される国際衛生会議で争点となっていたのは、船舶を一定期間停留させることで感染の伝播を防ぐ「停船法」と、特定の症状をみせる船員・船客がいるかどうかを医師が検診し停留は最小限にとどめる「医師検査法」をめぐってのものであった。1878(明治11)年8月末、「医師検査法」に基づく検疫法令を採用することで幕を閉じた。ところが、翌年春にはじまるコレラの流行を受け、同年7月に明治政府が発令した「海港虎列刺病予防規則」は、流行地から日本の開港場に入港する船舶に対して、沖合で7日間の停船を規定する内容となっていた。
      • 「海港虎列刺病予防規則」をつきつけられた欧米諸国は、それまでは外務省の検疫会議に自国の医師を派遣するなど協力姿勢を示していたが、一転して懐疑的な態度をとるようになった。1879(明治12)年7月、香港を出港し神戸経由で横浜へ向かっていたドイツ船ヘスペリア号が、日本の検疫官の制止を振り切って、停泊期間中に横浜へ入港する事件が発生した。感染症の来源がどこにあるのかという点に注目する時、コレラは海外から輸入されるものだという島嶼国日本の発想は、欧米諸国にとっては全く受け入れられないものだったことを、この事件は示している。
    • 検疫をめぐる方針転換
      • 1882(明治15)年6月、新たにコレラの流行が警戒されるなかで発令された「虎列刺病流行地方ヨリ来ル船舶検査規則」は、わずか五カ条からなるものだった。停船時間を48時間以内とし、コレラ感染者および疑似症患者がいなければ直ちに入港をさせる旨を明記している点から、医師検査法への転換は明らかであった。検疫に際しての停船措置を最小限に抑えることを条件に、諸外国の外交官に協力を求めることにしたのである。
 
  • 2年目に致死率が上がったスペイン風邪 =100年前のパンデミックに学ぶ= 2021年01月08日 RICOH 客員主任研究員 松林 薫
    • 歴史人口学者の故速水融・慶應義塾大学名誉教授が、1918~1920年に多数の死者を出したスペイン風邪についてまとめた「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」(藤原書店)に基づき、パンデミックの流れを簡単に振り返っておこう。
      • 1918年4月には巡業中の力士たちの集団感染などが報じられ始める。ただ、症状は比較的軽く、気温が上がる7月ごろまでには沈静化した。このころまでの流行を、速水は「春の先触れ」と呼んでいる。
      • 本格的な流行を迎えるのは気温が下がる10月以降。全国で同時多発的に集団感染が発生した。火に油を注いだのが徴兵制度だ。初めて兵役に着く若者が召集されるのが12月1日と決まっていたからだ。大正期の日本で人々が団体行動をする代表的な空間は、学校と工場、そして軍隊だった。近代化が進んだ結果、制度的な「密」が生まれていたのだ。
      • しかしその後、翌年春までにいったん流行は下火になる。理由は定かではないが、気温が上がったことに加え、免疫を持つ人が増えたことも影響したはずだ。
      • しかし1919年の秋以降、再び「後流行」が日本を襲う。特徴的だったのは「前流行」に比べ死者が約12万7000人と半減する一方で、致死率が1.2%から5.3%へと上昇したことだ。速水はこの点について、別の型のウイルスが登場したわけではなく、同じウイルスが変異し、強毒化したためではないかとみる。新聞は「前流行」ほど騒がなかったものの、全国的な流行が断続的に生じ、終息したのは翌1920年春だった。
    • 現時点で最も注目すべき点は「後流行」の存在だろう。これまでのところ、新型コロナ流行の波はスペイン風邪の「前流行」とかなり似ている。そうだとすると、新型コロナも2021年春には下火になる可能性がある。ただ、それが流行の終息を意味するとは限らない。油断すると「後流行」に火が付くかもしれないのだ。

協会概要  利用規約  個人情報保護に関して  提携・協賛・寄付・広告に関して  事務局 ㈱FellowLink  お問い合わせ   

©2021 Japan association for professionals’ activities. All Rights Reserved.